2022年8月16日火曜日

【展示】私が撮りたかった女優展vol4をみて感じたこと

 私が撮りたかった女優展vol4を観に行ってきた。撮影したフォトグラファーのトークセッションもその日の夜に行われていたのでそれも一緒に聞いた。

どの写真もとても綺麗で素晴らしかったと思う。ここにはそこに展示されていた写真そのもの感想とかではなく、展示を通じて「写真」について考えたことを書いておく。


個人的に印象に残ったのはMiss Beanさんが三吉彩花さんを撮った写真だった。まず「女優」というコンテキストを咀嚼して、それを通して自身の感じていることや表現したいことを、被写体を通して伝えようとしいる。伝えたいことが明確にあり、それに対して写真を構成している。明確に「表現」をすることが行われていたと感じた。


程度の問題かもしれないが、他のフォトグラファーの方が撮った写真は「女優というコンテキスト」にフォーカスしたというよりは「人物そのもの」にフォーカスしたように見えた。適切な言葉は思いつかないが前者が「構成されたメッセージの表現」だとするならば「構成された現象の記録」というのが近い気がする。もしかしたらメッセージがあったのかもしれないが、そうだとすれば見る側に解釈する力が求められ、鑑賞者側からはわかりにくい表現だったということだと思う(※)。


このように「表現」か「記録」という違いを感じるのは、フォトグラファーの現象に対する知覚と表示されたものの距離の問題だと思う。前者はその二つの距離がより遠く、後者はより近い。その間に挟まっているのはフォトグラファーの思考そのものだ。写真の面白いところは構造的に「記録」的なものを内包するから、前者の場合もどこかに知覚と直結された表示が行われることだと思う。写真には、フォトグラファーの思考を介さずダイレクトに鑑賞者の知覚に届く現象が、そこに映し出されている。


写真は「記録」と「表現」が同居することができるメディアだなと感じた。ただ、「記録」は必ずその中に内包され、「表現」は必ずしもその中に内包されるわけではないという面白さがある。


※ 必ずしもわかりやすいのが良いというわけではなく、「表現」「記録」どちらが正しいということでもない。

2021年6月14日月曜日

【写真】人物写真について

写真・主に人物写真についてしっかり学んでいきたいと思っているのでこれから少しずつ万田ことについて書いていきたいと思っています。内容としては以下について深めていければなと思っています。

・写真集の感想文
・写真の撮り方についての考察
    - カメラ
    - ライティング
    - 光の読み方
    - ロケーション)
・人物の見方について
    - ファッション 
    - ヘアスタイリング
    - メイク
    - 人と街の関係
    - 表情
    - ポージング

ポートレートの雑誌を見ても、実は写真の撮り方について書かれているものが多くて、被写体んの観察の方法/被写体の理解について書かれている本ってほとんどなかったりするんですよね。でも、本来は写したいものがあって、構図や光の読み方、カメラの使い方が必要になってくると思うので、突き詰めれば「被写体んの観察の方法/被写体の理解」が一番大事なところだと思うんです。

この考察の中では、「被写体の読み方」として書いていければと思います。
自分なりにまとめていければいいのかなと思いました。

2018年2月27日火曜日

喫茶ランドリーと部室的な時間について

渋谷ズンチャカ!のボランティアスタッフの活動の中で、よりよいアイディアが出せる環境が欲しい、どういう環境を作ればより密度の高いコミュニケーションが生まれアイディアが創出されるのか、という問いに対する一つの解決策として「部室をつくる」という意見がでていた。

先週の土曜日、みんなで森下にある「喫茶ランドリー」に行った時、自分たちが「部室」と表現していたものに求めている時間の過ごし方に近い感覚があった。良い考察ができるきっかけになったのでまとめておきたいと思う。


部室的な場所について


「部室」と表現したのは、一緒にいる時間が大事と考えたからだった。同じ時間を長く共有するということで生まれるコミュニケーションが、ミーティングのような目的をもった一時的な集まりとは違うコミュニケーションとなり、ふとしたきっかけで面白いアイディアが出るというということを、過去の体験から知っている。それは、ちょうど「部室」や「研究室」といった場所で体験したことだった。

大学を卒業して、いろいろな活動に顔を出してみるようになると、いつもかならず同じ問題にあたることに気がつく。それは「場所」の確保に関することだ。ずっと東京にいるので、東京についてしか語ることはできないけれど、この東京において「場所」を確保することの難しさを実感することが度々ある。

公民館を借りるにしても、借りるための条件があり、さらに事前の予約が必要だったりする。喫茶店はいつでも入れるとは限らず、長く時間を過ごす時はコーヒーをじっくり飲んだり、お代わりをしとどこか申し訳ない気持ちになったりする。ちょうど規模や人数が入れる場所がそもそも見つからないことだってたくさんある。

それに比べて自分たちが過ごしていた部室は、自由に出入りができたし、過ごし方にもそれなりに自由だったし、(実際は間接的には支払っているはずではあるけれど)お金の心配をすることもない。必要なものは自分たちで持ち寄って揃えることもできた。

そう考えると部室は、時間を気にせず、お金を気にせず、周りの様子を気にせずに過ごすことのできたとても貴重な場所だった。制約を気にする必要がない時間を過ごすことが、ちょっとしたアイディアの生まれるきっかけとなっていたのだった。

東京で「部室」を確保するのはなかなか難しい。東京、特に渋谷の周辺は場所を確保するのにたくさんの費用が必要になる。部室を作りたいという話は、いつもその問題につきあたって何か煮えきれない状態のまま、いつもうやむやになっていた。


喫茶ランドリーへ行く


つい先日、渋谷ズンチャカ!スタッフ同士のコミュニケーションツールに、喫茶ランドリーへ行こうというトピックが上がった。すぐに行ってみたいという5人かがレスポンスをし、結果的に当日参加した1人を含めた6人で喫茶ランドリーに行ってきた。


ゆるい参加と集合


喫茶ランドリーへ行った6人のうち4人は直前までバンドの練習をしており、一緒に喫茶ランドリーへと向かった。その中の一人は、もともと参加予定ではなかったがスタジオ練習の流れでそのまま参加した。予定の少し時間に遅れているのにいたが、偶然通りかかった道でたい焼き屋を見つけてしまい、匂いに誘われ空腹も相まって、さらに時間に遅れることになってしまった。到着したところ、ひとりはすでに到着済み、もう一人しばらくしてから到着した。


友達の家で過ごしているようだ


喫茶ランドリーはとても素敵な空間で、その名の通りランドリーがあり、そこにはミシンやアイロンが置いてある。ドリンクを頼めば持ち込みが可能なそうだ。自分たちが座った半地下のスペースにあるゆったりとしたソファーには、ブランケットがおいてあった。あちらこちらに、そこで「過ごす」ということがとても大切にされているように感じる要素がある空間だった。

僕らが集まった理由は「喫茶ランドリーに行ってみる」ということだった。だから、喫茶ランドリーに到着した時点で僕らの目的はすでに達成されており、その先には特に目的がなかった。やることがなくなった僕らは、それぞれ自分がやりたいように活動していた。
ひとりは、パソコンで次の日の準備をしていたし、一人は本を読んでいたし、ちょいちょい会話をしたり、ぼーっとしたりしていた。

「友達の家で過ごしているようだ」

これは、そのなかの一人がポツリともらしたとても印象的な言葉だった。そして確かにその通りの感覚だった。友人の家でみんなで鍋を突き終わった後、することがなくなってダラダラ過ごしているその時間に近いものだったような気がする。誰かと誰かがゲームをやり、一人は漫画を読んで、もう一人はうとうとしている。

ランドリーの環境も相まってか、いつのまにか3時間も過ごしてしまっていた。集合した時のゆるさも、友達に家で過ごす時のそれに近いように思った。


「多様性って大事だと思いますか?」


「多様性って大事だと思いますか?」

ゆったりとした時間を過ごしていると、そこにいる一人から突然この質問が出た。後から考えるとボランティアスタッフのミーティング中に出てきた内容に関することだったけれど、とても新鮮な質問に思えた。

「多様性を大事だと思ったことはないかも」

自分の中から自然に出てきたこの回答も、自分で言ったのにもかかわらず少しの驚きがあった。おそらく、普段のミーティングの後の飲み会では出なかっただろう回答だった。自分にはじっくりと考える時間が与えられており、丁寧に説明するだけの気持ちの余裕がある。大人数の飲み会の沈黙はどことない気まずさがあるけれど、気まずさの残らない「考える時間」という沈黙が許容される時間と空間がその場所にあったからこそ出た回答だったと思う。

この言葉をきっかけに、言葉を整理をしつつ至った自分の結論は「多様性が大事なのではなく、多様性に寛容であることが大事」なのだということだった。よくよく見渡すと、自分たちのいた喫茶ランドリーもそういう空間を意識しているように思えてきた。


ゆるやかな解散


その後、ポツリポツリと帰宅する人が出てきて、ゆるやかな解散となった。帰り際に、今日の体験のそれ自体が「部室」についてのよく考察になったね。という話が出ていた。


見えてきた「部室的」な体験


その日初めて喫茶ランドリーに行って部室的な体験を感じたということは、「部室」という存在があること自体が大切というわけではないということを表している。正確にいうと、喫茶ランドリーのように部室の代わりになってくれる要素がある場所で、過ごし方がある形を成していれば、常時設置された「部室」である必要はない、ということだ。

よくよく考えてみると、「部室」に集まってくる人は本来「部活」という目的に集まってきた人たちだ。「部室」におもむく理由としては、「部活」そのものの用事がある場合、もしくは何らかの用事で学校へ行き、とくにやることがなくなった時だったように思う。僕らの感じている「部室感」は主に後者だ。

部室に誰がいるかは部室に行くまでわからない。たとえ行ったとしても、目的がないからそれぞれ自由な時間を過ごしている。そのうち手持ち無沙汰になると、気になっていたことや、今考えていることをポツリポツリと共有しだす。

思い返せば同じような時間の過ごし方は「部活」を共有していた人以外ともあったことに気がつく。友人の家でくつろいでいる時のそれもそうだし、喫煙所(自分は吸わないが友人がタバコを吸っていた)で授業の空き時間を過ごした時もそのように感じていた気がする。いろんなパターンがある。

そういう感覚になる時は、時間を共有しているが、目的を共有してなくアクティブさを強いられていない時だったと思う。「チル」という言葉が「目的は特にないけれど楽しくのんびりする」という意味で使われていることがあり、まさにそれに近い状態だという話に落ち着いた。


まとめ


せっかくなので、ここまで感じた「部室的」時間を過ごすための条件をまとめておく。


  •  目的に対して集まっている時間ではないこと(もしくは目的が完了し、すでに達成すべき目的がなくなっている状態にあること)
  •  その場でのコミニュケーションが強いられない状況であること。
  • メンバーの行動が時間的に縛られていないこと。
  • ゆっくりと話ができる空間であること。(騒がしくないなど)


これを、ゆるい言い方でまとめれば、「チル」しているということだ。
他にも、色々な要素があるはずだと思う。もしかしたら参加したメンバーが違っていたら違う状況になっていたのかもしれない(それも重要な要素かもしれない)。ただ、今回の体験は「部室的」な時間をつくるヒントぐらいにはなりそうだった。

そういえば喫茶ランドリーも「洗濯」を目的として集まり、その待ち時間や作業時間をチルする時間として共有できるように作られているのではないかなと思った。少なくともそういう時間の共有がされる場所ではあるんだろうと思う。



2016年3月28日月曜日

【書籍】ショッピングモールから考える

「ショッピングモールから考える」東浩紀 / 大山顕著 (幻冬舎新書)を読んだ。
ショッピングモールに関する対談で、話がいろいろな方向に手足を伸ばしながら、面白く展開していく本だった。東さんがあとがきで書いていた

「世間で論じるに値しない」と思われているものにこそ、新たの論点を見出し、語り始めること。それが哲学への原点であり、 本書はその点で、「放談」であるがゆえに、逆に極めて哲学的な本だと言える。

まさに「ショッピングモール」を通して哲学をしている本である。東さんの哲学についての考え方は、ここで知ったのだけど、これは自分の思っている「哲学」についての考え方と近いので、とても共感出来た。(自分のほうは浅知恵の言い訳みたいなものでもあるけれど。)


 @mr_elephant  
明日の献立を考えることも哲学の入り口だと思うわけです 
https://twitter.com/mr_elephant/status/495547434395639808 

自分の知っているショッピングモールといえば「ららぽーと横浜」ぐらいで、もうしばらくの間いっていない。おまけに目的といえば映画館限定だった(しかも一人で行っていた)ので、ここに書かれているショッピングモールの一部については実感できるものではない。それは、自分がショッピングモールの想定している対象から少し外れていたからなのかもしれない。
この文章の中で使われている言葉を元に考えれば、それもしっくり来る。

ひとくちに「開かれている」といっても、若者に対して開かれていることと、高齢者に対して開かれていることは一致しないし、子どもがいるお母さんに開かれていることと、健常者の男性に開かれていることもまた全然違ってくる。 (p21)
つまり、かつて行ったららぽーとが、かつての自分に「開かれて」いなかっただけのことであると。

 この「開かれている」という言葉はなかなか難しい。この文章の中では、いわゆるストリートの「開かれている」と、ショッピングモールの「開かれている」に対して、どちらが本当に「開放的」なのか、だれにとって「開放的」なのかという言葉で問いがたてられている。どちらが本当に、と書かれてはいるが、「開かれている」という同じ表現を使っているのには、やはり意味があるはずだ。

自分がスタッフとして参加している参加型の音楽祭でも「開かれている」ということは、ひとつの重要な要素だと思っている。ただ、それに対するイメージもやはり抽象的でぼんやりとしている。きっと、そこも突き詰めて考えれば、ヒントが出てくるような気がしている。

とまぁ、出だしからこの調子でとても興味深く、しかも考えるきっかけをたくさん与えてくれる内容だった。ショッピングモールの空間についてや、テーマパークと都市の構造、具体的な話を元にいろいろと話が展開し、まとまったり、広がったりしていく。本文中に散りばめられた「いいから俺の話を聞けよ!」という話や、「ぜんぜん関係ないんだけどさあ」という話の中に、示唆に富んだ内容があってとても面白かった。それは書くときりがないし、おそらくまとめきれないと思う。

新書は割とさっさと読んでしまうものが多いけど、なかなかの重量感で久しぶりに満足した気がする。もう一度、ゆっくりとショッピングモールを回ってみてから読んでみたい。そんな本だった。

2016年1月19日火曜日

【FW】渋谷を歩く

久しぶりにフィールドワークらしいフィールドワークをした。

https://www.facebook.com/shibuya.zunchaka/posts/1739459312949377

場所は渋谷の街。渋谷という街は、山手線の通る街の中でも特に面白い街だと思っている。出会いは中高時代。中高時代渋谷によく通っていたと言ったら、どこのチャラチャラした学生だよと思われそうだけど、むしろ全く逆だった。行くところは限られていて、EST渋谷東口会館(ボーリング、カラオケ、ビリヤード)、千歳会館(焼肉)、あとはアニメイトだった。そんなことから、若者の街、ガチャガチャしていると思われがちだけど、自分のようにさえない人間でも受け入れてくれる場所だったと思っている。

渋谷はその名の通り「谷」だ。代官山、青山、円山町、桜丘町、神山町のように山や丘に囲まれ、その谷を見下ろすように明治神宮がある。そして、原宿はその名前から宿場町であったのだろうことが想像出来る。西側には兵馬を育てるための駒場野が広がり。。。。と、地名からでもかつての渋谷の様子が想像出来る。この地形的な特徴に加えて、鉄道のHUB駅になっていたので、というのも面白さの一端を担っていたと思う。

さて、縦にも横にも興味深い渋谷ではありますが、今は背の高いビルが立ち並び、その所々に古い建物がひっそりと生き伸びていたりします。今回のフィールドワークは、渋谷ズンチャカのロケハン。渋谷で何ができるのかというところにスポットを当てたものでした。

一緒に歩いていたチームの仲間の視点面白さや、音楽という縛り、そのなかで何ができるのかというのを見るのはとても刺激になるフィールドワークでした。せっかくなのでちょいちょい渋谷について調べていこうと思います。






2015年5月31日日曜日

【デザイン】自分なりデザインスタディ


もともと今の仕事を始めたのもデザインに関われる環境に行きたいという気持ちであったし、学生時代以来久々にちょっとしたデザインの作業をして、とてもたのしかったので、自分にとってのデザインやデザインへの向き合い方を書き留めていこうと思う。

 実際のアウトプットを一覧させるのではなく文章にするのには理由がある。ポスターをつくったり、冊子をつくったりするような作業をするのは好きだし、もちろん実践的な場面でこれからたくさんやっていきたいと思う。

だけど、ここで考えていきたいのは、そういうデザインのアウトプットの話だけではなく、デザインやその他のことを通して見えてくる、人とモノとの関係性、人と世界との関係性である。


 日常生活を送ったり、仕事や趣味で何らかの作業や訓練をしたり、いろいろと考えたり勉強してみたりする過程で、いろいろなことがつながっているということを感じることがある。

今は専門知識が細分化されている時代だし、暮らしも便利な道具とかで一つ一つの作業が独立していっている。だからこそ見えにくくなっているその間に感じるつながりの感覚や知識を何らかのかたちで残しておきたいと思った。

もちろん暗黙値の領域に引きこもらせておくことも出来るのだけど、鍛錬を行えば失われてしまうものもあるし、いかんせん忘れっぽいので書き残しておきたい。

2014年12月17日水曜日

【考察】いいものをつくるということ

プログラミングをしたりデザインをしたりイベントの企画をしたり、何かものをつくるのには、「いいもの」をつくりたいという思いがついて回る。きっと誰もがそうだとしても、それぞれの思う「いいもの」はそれぞれ違っている。きっとじぶんの思う「いいもの」と離れていけばいくほど、ものをつくる作業というのはつらく、そしてつまらないものになってしまう気がする。

もちろん人それぞれにちがう「いいもの」があるし、一人だけでものをつくるというわけでもないから、何もかも思い通りにいくわけではない。もしかしたら、そういう「いいもの」の違いの中で、あたらしい「いいもの」に対する想いがじぶんの中に芽生えてくるかもしれない。ただ、じぶんの思う「いいもの」をきちんと語ることができないと、納得のいくようなものをつくるという作業は決して生まれてこないとも思う。

いろいろと日常生活を送る中で、いろいろと人やものや出来事との関わりが生まれていく中で、じぶんにとって「いいもの」は、「くらしを豊かにするもの」だと思うようになった。「いいもの」よりは少し具体的だけれども「くらしを豊かにするもの」というのも、まだまだ漠然とした言葉だ。

「くらし」とはなんなのか。「豊か」とはどういうことなのか。これから少しずつこの二つの観点に絞って、戦陣の力も借りつつ、いろいろと具体的な言葉や体験を通じて語れるようになっていきたい。